FILE:031 機動戦士ガンダムZZ

評価:★★★(55)

TITLE

機動戦士ガンダムZZ

(きどうせんしガンダムダブルゼータ)

DATA

1986年

 

◆あらすじ。

グリプス戦役で傷ついたエゥーゴの強襲揚陸艦アーガマは修理と補給の為にサイド1の1番地コロニー=シャングリラへ寄港していた。
少年ジュドー・アーシタは、妹リィナの学費を稼ぐために仲間たちとジャンク屋で生計を立てていた。ある日、宇宙を浮遊する脱出カプセルを回収し、結果的にティターンズの士官ヤザン・ゲーブルを救出する。ヤザンはジュドーたちにアーガマからZガンダムを盗み出し、一儲けする事をけしかけられた。
口車に乗って、Zガンダムを盗みにアーガマに潜り込むジュドーだったが、そこで会ったのは放心状態で廃人同様となったZガンダムの元パイロット、カミーユ・ビダンだった。

 

※引用元『機動戦士ガンダムZZ』公式サイト

 

◆もっともコミカルなガンダム作品。

『Ζガンダム』の放送終了後に、そのまま続編のように放送がスタートした稀有な作品。後にも先にも、2年連続でガンダムが放送されたのはこれが最初で最後である(※『ガンダムSEED』と『ガンダムSEED DESTINY』が2年連続放映されたが、今回はあくまで宇宙世紀を舞台にした一連のガンダム作品を指している)

 

ハマーンやシロッコとの激闘を終えたボロボロのアーガマが寄港することになったスペース・コロニー<シャングリラ>から物語ははじまる。

 

前作である『Ζガンダム』は終始、誰もが暗い影を背負っているような雰囲気がつきまとい、それを助長するかのごとく数々の悲劇的シーンがこれでもかと描かれていた。

 

最終的には主人公のカミーユ・ビダンさえ精神に異常をきたして病床に伏せるというまさかの結末にさえなった。

 

だが、本作『ダブルゼータ』では、そんな悲壮感を吹き飛ばすかのように陽気なキャラクターが次々と登場してくる。

 

当時の富野由悠季監督におけるコンセプトは「明るいガンダムを作る」であった。

 

それはすなわちリアルロボットという自らが確立したカテゴリーからの原点回帰であり、

合体したら無敵、という往年のスーパーロボット系列の演出を(結果的に)踏襲することになった。

 

だが、2019年現在、『Ζガンダム』暗さは既知のものであり、アニメ史における近代古典と言えるくらいのポジションを確立しているため、「総じて展開が暗い」とか「話が込み入っていて(さらに劇中の説明が少なすぎて)分かりづらい」といった放映当時のネガティブな意見はほとんど見られなくなった(というか「そういうものだ」と認知されているというべきか)。

 

他方、リアルロボット=暗い雰囲気というのが定着化しつつあった80年代当時において、底抜けに明るいガンダムというのは、かなり異端な存在として視聴者を(子供時代のアニシエを含め)戸惑わせることになった。

 

『装甲騎兵ボトムズ』や『太陽の牙ダグラム』などを見慣れていた視聴者にとって、ふざけた動きをするロボットというだけで、期待を裏切られた感覚があったのである。

 

『Ζガンダム』の暗さや、分かりづらさというものは、あくまで一般論的なコメントであって、初代ガンダムからのファンにとっては暗さは気にならないし、分からない描写や設定は当時のアニメ雑誌などで解説されている資料を熟読することで解決する些末な問題であり、むしろその資料調査を含めての楽しみでもあった。

 

無論、小さすぎる子供や、アニメへ向ける情熱がオタクほどではない普通の人々にとっては、まったく意味のわからない作品となったことは否めない。

 

今日のようにアニメもジャンルごとに多様化し、必要な情報はすぐにネットで収集できるという時代でもないし、時間帯による年代別(趣味別)な線引きもなかった時代である。

 

『ダブルゼータ』が路線を大幅に変え、子供でも観れるガンダムを目指したのも、ある程度『ガンダム』という単語の認知度が上がってきたが故の方針変更であったのかもしれない。

 

それでも後半はやはりシリアスな展開へとなっていくわけだが、明るい演出も考慮したリアルロボットというものが『ダブルゼータ』から翌年の『機甲戦記ドラグナー』へと受け継がれていくことになる。

 

個人的には、この辺がある種の分岐点となり、リアルロボットという定義がより多様化していくキッカケともなっているのではないかと考えている。

 

『ガンダム』あるいはリアルロボットを語る上で、始祖のひとりとも言える富野由悠季監督の精神的な変容などを軸に語り始めてしまうと、本来の作品レビューとはまったく別種の記事になってしまうので、いずれ機会があれば総括として書こうとは思っています。当サイトでガンダムシリーズをすべてレビューし終えたらになりますが。

 

……何年先の話だよって感じですね。興味のある方は首を長めにしてお待ち下さい。

◆物語の大筋が小競り合いに終始する。

正直に言って、『ダブルゼータ』という作品のストーリーについては、ほとんど記憶に残っていなかった。

 

ガンダム好きと謳いながらも、やはりどこかしら『ダブルゼータ』という作品を敬遠していたのも事実である。

 

物語前半のふざけすぎたキャラクターとモビルスーツの挙動にまったくもって視聴する気が失せてしまっていた。

 

放送当時、アニメに関してだけ言えばマセガキであったアニシエも、ご多分に漏れず「こんなふざけたガンダムはガンダムではない!」と憤慨し、それ以降、全話を通して観ることはほとんどなかった。

 

後の再放送などでも、登場するモビルスーツのカッコ良さは認めつつ、やはりストーリーそのものに熱中するまでにはならなかった。

 

というわけで、今回改めて全話視聴して、色々と(個人的に)驚愕の展開が盛り込まれていたことを再発見するに至る。

 

リィナって南の孤島で死んだんじゃないんだ……。

そしてセイラさん、こんなに登場してたんだ!

え? ハヤトって死んだんだ!

 

などなど、新鮮な驚きがてんこ盛りである。

 

<タイガーバウム・コロニー>の話に至っては、記憶の中では地球でのエピソードだと思っていたくらいである。

 

というわけで、話の筋を理解した上での全話視聴は今回が初めてということになる。

 

物語全体の流れをかいつまんで要約すると、『Ζガンダム』におけるグリプス戦役が収束し、壊滅状態となったティターンズと、その暴挙に翻弄されて疲弊しきった連邦軍の状況に機を得たハマーン率いるアクシズ軍が、再びジオン公国を再興すべく温存していた戦力をもって侵攻を開始する、という流れになる。

 

ジオン残党軍アクシズはネオ・ジオンと名を変えて、スペース・コロニーを次々と制圧していく。

 

地球連邦政府にジオンの独立を認めさせるための戦い<第一次ネオ・ジオン抗争>が勃発する。

 

しかし、先の大戦<グリプス戦役>において、各陣営とも多数の死傷者をだしており、戦いの中心は年端の行かぬ少年少女や経験の浅い若手パイロットが大半を占めることになる。

 

やがてハマーンの配下であった青年パイロット、グレミー・トトは己こそザビ家に連なる正当なる血統を継ぐ者であると反旗を翻し、ハマーンとの内紛を勃発させる。

 

グレミーの出自は後述するとして、前作『Ζガンダム』のような各勢力がその総力戦で戦いあった大規模な戦争からすると、本作でやっていることはネオ・ジオンの内輪もめと、その中で翻弄されるジュドーたちという局所的な争いがメインとなる。

 

物語全体を俯瞰して視聴していると、「なんだか規模が小さいなあ」と感じてしまう。コロニー落としやアクシズの居住ブロックをコロニーにぶつけるなど、大掛かりなこともけっこう行っているのだが、結局のところネオ・ジオンはハマーンとグレミーによる内紛のせいで自滅していっただけのように観えてしまうのだ。

◆ニュータイプについて。ジュドーの強さ。

 

主人公であるジュドー・アーシタのニュータイプ的な能力というのは、実はかなり上位に入るほど高い。

なぜそう言い切れるのか?

 

それは、けっこうマジメに(コミカルに動くモビルスーツにめげることなく)視聴していれば、色々な点で合点が行く描写があることに気づけるはずである。

 

そして、前作である『Ζガンダム』の主人公カミーユ・ビダンとの比較と、彼の台詞によって、それが裏打ちされているという素晴らしい伏線も存在している。

 

カミーユの最終決戦。シロッコとの一騎打ちにおいて「生命は力だ」とカミーユは叫んでいる。

 

そして戦死した仲間に身体を貸すことで、彼らの力を融合・増幅してシロッコを倒している。

 

ニュータイプという概念(あるいは実態)には時間や物質的な存在(つまり肉体)はあまり重要ではなく、どのような形であれ存在を示せる意志力のようなものが重要なファクターのひとつとしてある。

 

つまり<存在しようとする意志力>=<生命力>であり、命こそ力の源であり、その意志の交感ができる人種をニュータイプと呼ぶのではないか……とここでは仮定する

 

前作におけるカミーユの上記の発言から、再び今作の主人公であるジュドー・アーシタをじっくり見てみると、なるほど彼は非常に活発な少年である。

 

両親が出稼ぎに行かなければいけないほど経済状態は悪く、親がエリート富裕層であったアムロやカミーユのような、甘ったれた部分はほとんどない。

 

あやしい仲間たちと一緒にジャンク屋を営みつつ、さらにウマイ儲け話はないかと日々をたくましく生き抜いていく。

 

その理由のひとつに妹であるリィナをお嬢様学校へ入学させるための資金を集めるというものがある。兄弟、姉妹が存在するガンダム主人公も、じつはジュドーくらいである。

 

このように、生活のすべてが自分にかかっているジュドーには、アムロやカミーユのようにうじうじしている時間的、経済的な余裕が無いのである。

 

それにもかかわらず、腐らずに明るく生き抜いている姿はまさに<生命は力>を象徴する主人公であるといえるだろう。

 

アムロやカミーユよりも<生命の力>が強いと分かる描写は他にもある。

 

宿敵となるハマーン・カーンと対峙するシーン。

 

『Ζガンダム』においてカミーユと対峙したハマーンは、カミーユから放たれるプレッシャーについて、顔を歪ませて嫌悪するという程度の反応しか示さなかったのに対して、ジュドーが無意識にまとっているプレッシャーですら恐怖におののくほどの狼狽ぶりをみせた。

 

さらに言えばジュドーはハマーンを敵として見ている部分と、そのうちに秘めている悲しさにも共感していて、救いの手さえ差し出している。

 

結果として、彼らが共感し合うことはなかったのだが、それでもニュータイプの能力を一番正しく使っているのが(シリーズ通して)ジュドー・アーシタであるというのは実に興味深い事実である。

 

ラストバトルにおいて、ジュドーはハマーンを倒すことになるが、これまでの戦いにおいて人類(主にオールドタイプとされる人々)に失望していた彼女がジュドーという少年に会えたことにより笑顔で散っていくことができた。

 

「帰ってきてよかった。強い子に会えて……」

 

人類の未来に絶望していたハマーンは、まだ希望は残っているということを確信してこの世を去ることになる。

 

ニュータイプとして、互いの意識が分かりあえるからといって、そこで協調できるかどうかということは、また別の問題である、ということがここで語られている。

 

育ってきた環境、立場によって、たとえ本心では共にいたいと願っているとしても、それが許されない状況というものが存在し、その状況を作り上げてしまったオールドタイプの世界を変革していくための戦いが、これからもガンダムの世界は続いていくのだろう。

 

圧倒的な<生命力>を兼ね備えているジュドーという主人公が(実は)けっこうスゴイということがおわかりいただけただろうか。

 

このように、ニュータイプの存在という側面から考えていくと、やはり『Ζガンダム』と『ガンダムZZ』は合わせてひとつの作品なんだなあ、と思えてくる。

 

モビルスーツやキャラクターのふざけた振る舞いに隠されている、根幹になるテーマを紐解いていくと、じつはけっこう面白い作品なのだ。

 

◆ヤザン・ゲーブルに見る原点回帰。

土曜の夕方5時30分といえば、サンライズのロボットアニメが軒を連ねる伝説的な時間帯なわけだが、その時間帯における最初の作品が『戦闘メカ ザブングル』となる。

いずれレビューすることになる作品なので、詳細は割愛するが『ザブングル』の前年に放送されていたのが『最強ロボ ダイオージャ』というスーパーロボット系であったため、引き続き観るであろう視聴者層に合わせた、コミカルな要素を加味しているリアルロボット作品として『ザブングル』は放送された。

『ダブルゼータ』における富野由悠季監督のテーマは<明るいガンダム>であり、じつは『戦闘メカ ザブングル』への原点回帰でもある。

物語の後半、自分たちの家となり母艦となる艦船<ネエル・アーガマ>においても、主導権を握るのは少年少女たちであり、大人は裏方へと回る。だからこそ、とんでもない失敗や奇想天外な奇襲攻撃を敢行したりして、彼らはイタズラが成功したかのように一喜一憂する。そのおかげでミリタリー色が薄まっていくことにもなるのだが、それは富野監督が意図して行った原点回帰によるものなのだろう。

『ザブングル』においても母艦となる<アイアン・ギアー>の艦長は少女であり、メインクルーは子どもたちだらけである。

そして『ザブングル』を意識しているなによりの証拠が、序盤に登場するヤザン・ゲーブルの格好である。

ずる賢い悪役というキャラクターで、カウボーイハットにマント姿のヤザン。これは『ザブングル』に登場する悪役ティンプそのものである。

 

もともとコミカルな要素などなかったヤザンが、かなりティンプに寄せていじられていき、ギャグメインのキャラクターへと変貌していく姿は、ヒールなヤザン好きにはちょっと物悲しい光景である。

 

『ダブルゼータ』のあと、最後のリアルロボットとなる『機甲戦記ドラグナー』があるとはいえ、実質的に富野由悠季が監督として手がける作品としては(この放送枠では)『ガンダムZZ』が最後である。

最初の作品である『ザブングル』をメタファライズし、パロディ要素さえ盛り込んでいる遊び心としての演出は、それを理解してはじめて<明るいガンダム>を許容できる理由のひとつとなるのではないだろうか。

 

◆グレミー・トト。その素性の真実は?

本作の物語をもっともややこしくしているのは、グレミー・トトによるネオ・ジオンの内紛である。
一体彼がなぜ、反乱を起こしたのかは、じつは詳しく語られていない。

ハマーンによる独裁化を防ぐというようなお題目を唱えて決起しているものの、彼自身の決起するに足る資格がどこにあるのか? という謎には作中で明確に表現されているシーンはない。

 

ザビ家の真の継承者を名乗るが、その出自は曖昧なままである。

 

かろうじて、そうであろうという意味深なセリフを言っているのが第32話において、オウギュスト・ギダンに仄めかしている程度である。

 

「ザビ家の血統……信じるか?」

 

これしか言ってない。

 

おかげで憶測やら、想像による補填によって生まれてくる作品があとを絶たない(というほど多くはないけど)。

以下にそれらを箇条書きしてみる。あくまで憶測であり、公式な設定が公表されていないことを重ねて記しておく。

小説版『機動戦士ガンダムZZ』より。
デギン・ソド・ザビの隠し子としてトト家に預けられたと語られている一節が存在する。
アニメではニュータイプとしての描写はなかったが(※)、小説版ではグレミーもニュータイプとして描かれている。
(※アニメでも、ハマーンすら恐れたジュドーの怒りの感情にはニュータイプ的な感知力を垣間見せているが、積極的な力の利用はない)

 

マンガ『機動戦士ガンダム ギレン暗殺計画』より。
一年戦争末期、公国歌劇場でのオペラに鑑賞客として少年期のグレミーが登場している。没落貴族で跡継ぎのいないトト家はグレミーを養子にして以降に金回りが良くなったため、この頃からギレンの隠し子であるとの噂がたつ。

 

ギレン・ザビの隠し子説
隠し子そのものである、という説の他にギレンとニュータイプな女性による人工授精によって生まれた実験体であり、同じ経緯で生み出されたプル・シリーズと異母兄弟であるという説もある。
個人的には、一年戦争時代、ニュータイプを研究していたのはキシリアであり、ギレンはどちらかと言えばニュータイプの存在を小馬鹿にしていたはずなので、ギレンの隠し子ではあるとしてもニュータイプとのハイブリッドである説というのは信憑性がない気がするけど……。

そんな謎めいた男であるグレミー・トトではあるが、物語序盤はやっぱりおふざけキャラのひとりであった。

その他の人物もそうであるが、お気楽な序盤のわりに、後半はけっこう悲劇的な結末を迎えるキャラが多いのも本作の特徴である。

マシュマーやキャラ・スーンなども、最終的には強化・洗脳されて玉砕するという悲惨な最後を遂げている。

 

◆二足のわらじが常識となっている声優陣。

 

土曜夕方5時30分のサンライズアニメでは、その数年間でほとんど声優が持ち回っている。

それだけではなく、中にはひとつの作品で2役~それ以上のキャラクターを持ち回る猛者も多数いた。

すべての声優について列記すると、とてもではないが長大な記事となってしまうので(いつものように)個人的な好みに絞って書いていくことにする。

ビーチャ役の広森慎吾(現・森しん)は、メカニックのアストナージとのダブルキャストである。

『Ζガンダム』で非業の死を遂げたロベルト役の塩屋浩三はモンドを演じている。

おふたりとも、渋いオッサンから若い少年まで芸風が広いですね。

同じく前作ではエマ・シーン役であった岡本麻弥がジュドーの妹であるリィナ・アーシタ役で再登板。

ロザミア・バダム役の藤井佳代子もエマリー・オンス役で出ている。

基本的に『Ζガンダム』戦死したキャラクターの声優は、軒並み出演している感じである。

パプテマス・シロッコとしてラスボスを努めた島田敏が、ハマーンの側近であるニー・ギーレン役として宿敵に仕えるというのも、なんとも味わい深い配役である。

玄田哲章は序盤でゲモン・バジャックという小悪党を演じているが、中盤ではデザート・ロンメルという骨太なキャラクターにも声を当てている。

そして最後に『ダブルゼータ』でアニシエが一番好きなキャラクターであるゴットン・ゴーを演じた戸谷公次。前作ではカクリコン役を演じて早々に撃墜されてしまった名脇役である。

コミカルなゴットンを演じたあと、さらにオウギュスト・ギダンというシリアスな役も演じている。声はどちらも同じだが、演技の違いでガラッと印象を変えられる技量はさすがベテランである。

 

◆主人公の普遍性と時代性について考えてみる。

 

『Ζガンダム』と続けるようにして放送されたさい、そのあまりに過激なギャグ路線への変更に戸惑いを覚えた人もたくさんいるだろう。

アニシエもご多分に漏れず、子供の当時「こんなふざけた話はガンダムじゃない!」と憤慨したという話は冒頭でした。

しかし、いま冷静に時代とともに振り返ってみると、これはある意味で(当時の)リアルな若者像を念頭に置いた演出なのではないだろうか、という疑問が浮かび上がってきた。

1986年。それはバブル景気がまさに始まろうとしている華やかなりし時代である。

多くの若者が享楽のうちに、有頂天に浮ついていた時代である。

70年代の『ファースト・ガンダム』がフォーク・ソングだとすれば、『Ζガンダム』は体制への反抗を主軸においたロック・ミュージック、そして『ガンダムZZ』はさながら陽気なディスコ・ミュージックである。

誰しもが暗い影のひとつやふたつあるからといって、それがどうした? 時代は、未来はこんなに明るいんだぜ! と自由を謳歌していた当時の10代そのままに、シャングリラに住む主人公ジュドー・アーシタを含む仲間たちは、(決して愉快ではない環境でありながら)日々を明るく過ごしていた。

ある意味では時代にマッチしているようにみえる若者像ではあるが、では、なぜこれがアニメファンに不評を買ったのか?

それはひといえにアニオタの習性であり、今日まで脈々と受け継がれているひとつの暗黙のルール(というか、変えられたくないテンプレートというべきか)がある。

当時のアニオタというものは原則として、時代の流れに(アニメ・ゲームの技術革新以外において)迎合しない、というスタンスを誇示していることが美徳のひとつであった。

つまり、どんなに世間がチャラい男を囃したてたとしても、依然としてウジウジ・ジメジメしていて、だけど戦うときだけキラっと光る主人公というものが、彼らの中の主人公たる者としての理想に近い若者像なのである。

どれほど時代が流れたとしても、これがある種の普遍的主人公像であるということを立証したのが、その後90年代に爆発的な人気を獲得した『エヴァンゲリオン』を挙げれば納得されるだろう。

だから、よりリアルな若者像としての『ガンダムZZ』はアニオタの心をつかむという面においては失敗したと言わざる得ない。

昨今(現2019年)ではネットの普及とあいまって、かなりの部分で時代と流行に連動してくるようになってきてはいるが、やはり普遍的なキャラクター像というものは、いつの時代にも求められる要素として、ある一定の基準値のようなステータスが維持されていることが多い。

現代のロボット作品ではチート的に強い主人公が多数を占めるが、彼らは一様に無口で無愛想な性格であることが多い。ウジウジはしないが、かといって陽気なわけでもない。

このあたりのステータスが、あらゆる視聴者にたいするコンセンサス(最大公約数としての許容)が得られるラインなのではないだろうか。

そもそも明るい主人公が並みいる強敵をなぎ倒して前へと進んでいく、というストーリー展開自体が、リアル・ロボット系との相性が悪いように感じられる。前述したが、やはりスーパーロボット的なノリに見えてしまうのである。

時代性を受けた結果としての、暗い主人公(カミーユ)のあとにくる明るい主人公(ジュドー)の意味付けとしてさらに深読みして考えてみると、戦争に順応できてしまう若者の柔軟さ(ゆえの怖さ)、がそこに含まれるかもしれない。

「兵が若い」と愚痴を漏らすハマーンの言葉通り、アクシズやネオ・ジオンの兵たちもほとんどが10代、20代で編成されている。

大人を極力排斥しようとした本作品は、結果としてガンダムに求められているリアルな軍隊という側面も削ぎ落としてしまっている。

それが期待値を越えられない裏切り方であったからこそ、多くの不評を買ってしまったのだろう。

あまりに戦争が続くので、本物の兵士がいなくなってしまった世界なのだ、ということを念頭に置いて視聴しないと、どうにもリアル・ロボットという体裁が保たれていないように感じられてしまう。

この辺りをもう少し丁寧に描いていれば、あるいは『ファースト・ガンダム』以上のジュブナイル作品へと昇華できていたかもしれない。

 

◆総評。

ということで、細かいところで大きく『リアル・ロボット』作品としての体裁を逸脱してしまっていることが、やはりガンダムの中で評価が別れる部分になるだろう。

個人的にはメカニックのデザインはすごくカッコイイものが揃っているだけに、勿体無いなあ、という気持ちでいっぱいである。

期待以上に良かった部分と、期待していたほど面白い展開ではなかった部分が同じくらいあるので、評価は上記のとおりである。

『機動戦士ガンダムUC』までを時系列で観ていきたい、という人には観てもらうべき作品ではある。

 

※ただし『劇場版Ζガンダム』だけでは、物語が繋がらないので要注意である。

オマケの余談。

『ファーストガンダム』に登場していた懐かしのモビルスーツがたくさん出てくる。

好きな人にはたまらないサービスである。

 

アッガイ

ズゴック

ゴッグ

アッグガイ(すごいカラーリング)

↑こいつはMSVというプラモデルや設定でしか存在していなかった機体。

ザク

ゲルググ

 

これだけでもけっこうなお得感があるが、アニシエ的にはもっと別の視点でもオマケ要素が盛り込まれていると感じている。

それはスペース・コロニーにおける生活感である。

数あるガンダム作品の中でも、様々なコロニー内を紹介している作品は『ガンダムZZ』だけである。

宇宙世紀の世界を巡るという意味では、空想的な旅行気分を味わえて楽しい。

シャングリラ、ムーンムーン、タイガーバウムなど、特色のあるコロニーでの生活が垣間見える。

しかし、そのぶん本筋と関係のない冗長なエピソードが多数盛り込まれることになるわけだが、それを楽しめるかどうかで、本作の評価は人それぞれ大幅に変わっていくだろう。

 

アニシエはけっこう楽しめました。

 

 


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