FILE:013 機動戦士ガンダム

評価:★★★★★(98)

TITLE 機動戦士ガンダム
DATA 1979年

 

◆あらすじ。

 宇宙世紀0079——スペースコロニー“サイド3”はジオン公国を名乗り、地球連邦に独立戦争を挑んできた。人類の半数以上を死に至らしめた戦争は、今や膠着状態に陥っていた。そんな状況下で連邦側のコロニー“サイド7”に怪しい動きを察知したジオン公国軍のシャア・アズナブル少佐は、モビルスーツ“ザク”3機を偵察に差しむける。連邦軍はそこで“ガンダム”を中心とする新鋭モビルスーツの開発と運用テストを行っていたのだ。興奮した新兵のジーンは軍功を焦って暴走し、独断で砲撃を開始した。サイド7の少年アムロ・レイは、他の民間人ともども戦火に巻き込まれてしまうが、そこで父の開発するガンダムのマニュアルを偶然拾う。隣人のフラウ・ボゥの家族たちが一瞬で死に至ったのを見たアムロは、ガンダムの操縦席に乗りこんで起動する!ガンダムでザクに立ち向かったアムロは、まったくの素人ながらビーム・サーベルで2機のザクを破壊することに成功。だが、シャアはムサイ艦からミサイルを発射し、サイド7を破壊し続けるのであった。

※引用元『機動戦士ガンダム』公式サイト

 

◆マジメに原点回帰としてミテミタ。

『R.O.D -READ OR DIE-』の回で、アナログ・ビデオ時代のエアチェックの難しさについては散々語ったので、ここでは割愛させていただく。そして、その毎週録画の難しさのせいで、たぶん僕は生まれて初めて今回のレビューのために『機動戦士ガンダム』という作品をまじりっけなしに、順を追って全話完全視聴した。

 

子供の頃の再放送では、どれだけ頑張ったところで1年間、同じ時間にテレビの前で待つことはできなかったし、ビデオ時代の再放送であっても野球や特番のせいで放送時間がずれたり延期になったりで全話録画は叶わなかった。

 

はたして何度挑戦したことやら……。

 

それでも劇場版を(何度も)観ているし、断片的には全43話を観ているはずだし(そうでなければ、シャリア・ブルやククルス・ドアン、果てはアッザムなど知る由もない)ことさらレンタルショップで『ファーストガンダム』を全話借りようという気もおきなかった。

 

というわけで「そういえばちゃんと観てなかったよな」という感じで思い立ち、

こうして改めて襟を正して(というのは大袈裟だが)全43話を視聴した。

 

◆勢いが先行する作画。だが、それでいい。

 

最初に感じたことは、率直に「なんていい加減な映像なんだ」という苦笑交じりの感想である。

 

パース(遠近感)はとれていないし、カラー指定も曖昧である。さらにハイパー・バズーカを担いでいるガンダムが、次のカットではビームライフルを持っていたりする。

 

ごくたまに(いや、わりと頻繁に)まるでマティスかルソーのような、芸術的な構図を醸し出す、もはや意図的と言っていいくらい、遠近法を無視した作画が、なにかのメタファーのように画面を蹂躙する。

 

 

宇宙空間でザクレロとガンタンクが殴り合いの近接戦闘を行う様に至っては、もはやコントである。

 

 

だが、どれだけ突っ込みどころが満載だとしても、ガンダムというひとつの神話体系を築き上げた太祖であることに変わりはない。

 

現代にあっては中学生ですら呆れるほどのトンチンカンなSF考証であったとしても、当時の子供やアニメファンには、それまでにないリアル・ロボット・アニメーションとして、鮮烈に記憶されたことだろう。

 

もちろん、アニシエもそのひとりである。

 

作画がダメとか、こんなのリアルじゃないとか、そんなことは些末な問題であり、それを含めて楽しむことができなければ、そもそもこの時代に『初代ガンダム』を観る必要はない。

 

◆アニメ史の『古典』としての意義。

 

ガンダムを境にして『リアルロボット』というジャンルが確立され、そこに一大マーケットが築かれるほどに発展してきた。

 

では、いったいガンダムの何が本当の意味で『リアル』なのか?

 

そこに描かれている『戦争』のあり方が、リアルなのではないだろうか。

 

主人公アムロ・レイが所属する『地球連邦政府』。これまでのアニメであれば、すべての正義が集約されているような組織として描かれているはずである。

 

だが、正義の味方であるはずの連邦政府という組織には、他人の出世を妬み妨害するもの、守るべき人民から略奪行為を行う者、敵対組織である『ジオン公国』へ情報を流す者など、本物の戦争でも起こりうるような『人の弱さ』を随所に描いている。

 

そして、敵側である『ジオン公国』では、首長たるデギン公王の親族達による血で血を洗う後継者争いが日常的に行われている。

 

さらに、アムロのライバルであるシャア・アズナブルの真の目的は父ジオンを暗殺し、公王を僭称するデギンと、その一族への復讐にある。

 

つまり、シャアにとっては連邦との戦争の行く末も、アムロとの戦いも、基本的には関心がないのである。

 

シャアが起用したララア・スンという女性パイロットの死により、アムロと戦う理由は後々大きな意味を持ってくることになるが、それは『Ζガンダム』『逆襲のシャア』といった先の話となる。

 

ジオン公国にしても、悪の組織・非道な集団という分かりやすい描き方はせず、ホワイトベースから逃げ出した民間人へ救援物資を送るなど、敵側にも戦争に巻き込まれた人々を慈しむ一面があることを伝えている。

 

戦争時下では、誰もが他人に対する相互不理解によって、争いの火種がそこかしこでくすぶっている。その不安を払拭させるかのように『ニュータイプ』と言われる、人類の革新した姿を切望する描写は、そのまま社会がニュータイプという人種を生み出す土台となっていることを仄めかし、その進化を促進させるように時代が動いていく。

 

だが、その革新した姿(後半のアムロ・レイ)はまだ戦争の渦に埋もれていて、その本当の力の意味も使い方も知らぬまま、物語は終焉をむかえる。

 

戦争にまつわる人々。それを民間人から軍人まで、それぞれの立場で、人間臭く生きていく姿を見せることによって、そしてその世界に生きている人々の息遣いを感じさせることで、ガンダムは視聴者に『リアルな手触り』を残していったのではないだろうか。

 

ここまで書いていて思うのは、以前劇場版でも書いたことだが、

 

子供が観る時間にやることじゃないよね(笑)。

 

だが、富野由悠季監督率いるスタッフには、その放送枠の中でしか勝負ができなかった時代でもあったのだろう。

 

ガンダムの挑戦とは、これまで子供だけのものだとされていたテレビアニメが、良質なドラマ性と娯楽性を両立しうるメディアなのだ、ということを世間に認めさせることにあったのかもしれない。

 

そして、その挑戦は2018年現在、大人でもアニメを観ることが不自然ではないという社会を築き上げたことによって、成功したとも言える。

 

◆もはや『観るモノ』ではなく『語るモノ』

 

たとえば職場で、ウィンドウズのPCからマック・ブックへと買い替えた人がいるとしよう。

その人が、得意げにサクサクと仕事しているときにふと、

「ウィンドウズとは違うのだよ! ウィンドウズとは!」

と、小さな声でつぶやいたりしたら、おそらくガンダムを知っている人は思わずニヤリとするだろう。

 

ガンダムをまったく観たことがない人にとっては、ほとんど意味不明な独り言である。

 

そして、これをつぶやいた人も、別に誰かに聞いてもらいたくて言ったわけではない。

 

さらに言えば、そのセリフを理解した人がいたとして、出し抜けに、

「見事だな。しかし小僧、自分の力で勝ったのではないぞ! そのパソコンの性能のおかげだということを忘れるな」

などと叱り飛ばしたりしないはずである。

 

それが同僚であれ、ちょっとした知人であれ、その場では何もなかったの如く振る舞っておく。

 

後日。

 

会社の飲み会でマック・ブックを買った彼と再会したときに、ジョッキ片手に、

「勝利の栄光を君に」
と、挨拶をしてみる。

そこではじめて、互いが「ああ、話の通じる人なんだな」と意気投合することになる。

 

こうして、ガンダムを知っている人同士は、互いを同士と認め合うための儀式として『ガンダム名言』を使用するに至る。

 

さらにその結束力を強固なものにするため、この奇妙な暗号めいた会話は続けられる。

 

つまり……決して一度観ただけでは覚えきれないほどのセリフを組み合わせて、日常会話が成り立つほどのトークを繰り広げられるか? という互いのテストが行われるのである。

 

……あ、ちょっと、「うわ、めんどくさっ」とか思わないように。

 

本人たちは楽しんでやっています。決して寝ずの勉強で無理やり暗記してきたわけじゃありません。

 

と、まあ普通の人なら若干引くような、これらのイニシエーションが行われる背景には、それぞれが個別に何度もガンダムを観ているという事実がある。

 

ようするに「●●●について、どれくらい知ってる? どれくらい好き?」と聞くより手っ取り早いじゃないですか、という話である。

 

何が言いたいかというと、ガンダムはすでに視聴作品の枠を超えて、コミュニケーション・ツールとして機能しているということである。

 

作品を論ずるのではなく、作品で論ずるのである。

 

これを、誰もが知ってる『サザエさん』や『アンパンマン』でやれ、と言われても、せいぜい2~3言であっという間に終わってしまう。

 

現代のように、ちょっとネットで検索すれば名言リストが出てくるという便利な時代ではなかった。だからこそ、誰もが何度も同じ作品を観て、セリフまで暗記してしまうほどになったのかも知れない。

 

さらに言えば、個別に好きなアニメがあって、そのセリフを言える人というのは結構多く存在している。
だが、それでコミュニケーションを取れる人というのは絶対数に限りがある。

 

『超時空騎団サザンクロス』のセリフで会話しろ、と言われても、普通に暮らしていてそんなことができる相手と出会うことは皆無と言っていいだろう。

 

 

ガンダムだからこそできる、こうした『遊び』が(世代を越えてまで)できるというのが、なによりもこの作品を高く評価できる理由である。

 

不思議と、マクロス系ではこういった遊びができない。

『マクロス7の熱気バサラ』→「俺の歌を聞け」
『マクロスFのシェリル・ノーム』→「私の歌を聞けぇ」
『マクロスFのオズマ・リー』→「突撃ラブハート!」

けっこう愉快なセリフは多いのだが、やはりそこには日常会話として覚えるほどのインパクトが少ないのだろう。
ガノタが言うところの『富野節』と呼ばれる、富野監督の一連の奇抜な台詞回しの妙が成せる業なのかもしれない。

 

◆金字塔だから観て、とは言わない。

 

現代を生きる10代のアニメファンへ向かって、声高に「神話のはじまりなのだから観なさい」と言うつもりはさらさらない。

 

子供の頃に胸踊らせた記憶が無い限り、デジタル世代がこの作品を(資料的意義を持って観る以外に)視聴する動機はない。

 

ガンダムのあらすじを押さえておきたい、という程度であれば劇場版のほうが手軽である。

 

だが、その後のロボット・アニメーションの行末を決定づけた作品であることは間違いない。

 

ガンダムが登場することなく、この世のすべてがスーパーロボットだけであったとしたら、これほど大人が熱中するジャンルとして確立されることはなかっただろう。

※注:宇宙戦艦ヤマトというシリアス志向のSFアニメもあったが、残念ながらロボット要素がない。

 

 

その後の『系譜』に対する賛辞と、ジャパン・アニメーションの礎となった作品であることを踏まえれば、この作品こそ高評価でなければ、そのあとに続くものが何もなくなってしまう。

敬意と、少年時代の憧憬、そしてこれからの新しいガンダム・ワールドへの期待を込めて、今回は上記の評価としておく。

 


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◆神話のはじまりがここにある。作画崩壊の楽しさという意味でも原点である(笑)。