FILE:004 機動戦士Ζガンダム A New Translation(劇場版3部作)

評価:★★★★★(80)

TITLE

機動戦士Ζガンダム A New Translation

(きどうせんしゼータガンダム ア・ニュートランスレーション)

DATA

第一部「星を継ぐ者」 2005年

第二部「恋人たち」  2005年

第三部「星の鼓動は愛」2006年

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あらすじ

 人類が初めて経験した大規模な宇宙空間での戦争が、地球連邦政府とジオン公国のものだった。その最後の一年間は、人型の機動兵器、モビルスーツの実用期ともなった。あれから10年弱……。ユニバーサル・センチュリー0087(ダブルオーエイティセブン)。地球に住む人々とスペースコロニーに住む人々との確執はいまだくすぶり、人々の魂もいまだ地球の重力から解放されていなかった……。
スペースコロニー、グリーン・ノア2に住む少年、カミーユ・ビダンは連邦軍軍人への反発から、新型モビルスーツ、ガンダムMk-2を奪取。反地球連邦組織『エゥーゴ』へと身を投じる。ガンダムMk-2を奪われた連邦軍のエリート組織『ティターンズ』は、カミーユの両親を人質にとるような卑劣な作戦を強行した。結果、カミーユは眼前で両親を失ってしまう。そんなカミーユの側にいるクワトロ・バジーナ大尉は、かつてのジオン公国軍のエース、シャア・アズナブルだったが、彼は軍をあるべきものにしようという夢を抱いていた。両親の死を悲しむ間もなくエゥーゴの作戦に参加したカミーユは、大気圏を突破して地球へ降下して、出会った男がいた。かつてのシャアのライバルだった伝説の男アムロ・レイだった……。

引用元『機動戦士Ζガンダム A New Translation 星を継ぐ者』公式サイト

 

◆ガノタであればあるほど「?」となる迷作。

まず、アニシエ的な評価としては上記の通り、それほど悪くはない。

 

というか、かなりイイ。

 

しかし、古参の(※注:アニシエも立派に古いのだが)ガンダム・オタク(=以下ガノタ)からは酷評も上がるほどに、色々と問題を抱えている作品でもある。

 

(当たり前の話だが)べつにアニシエが作ったアニメではないので、熱狂的なガノタの不平・不満をあげつらって「いや、それは違うぞ」などと弁明するつもりはさらさらない。

 

何度も言うが、アニメは人それぞれの価値観でもって、その良し悪しを(自分の責任として)評価すべきものだ。

 

これはまあ、とくべつアニメに限った話ではないけれど。
映画、絵画、その他のアートや演芸なんかでも、誰かに言われて強制的に観せられているわけではないのだから、アレコレと意見があっていいと思っている。

 

とはいえ、劇場版Ζガンダム3部作を観終えたとき、たしかにこれは「はて?」と首を傾げたくなるのは往年のファンとしては当然の反応だとは思う。

 

まず結末がTV版とは大きく掛け離れている、という点が最大の問題となっている。

 

 

なにが問題か?

 

 

ガンダムをまだ一度も観たことがない人、あるいはガンダム・シリーズを系譜としてこれから年代順に観ていこうとしている人には、なにが問題なのかよく分からないと思うので簡単に説明しておく。

 

結末がTV版と大幅に変わっているということは、Ζガンダムの続編である『ZZ(ダブルゼータ)ガンダム』へと物語的に繋がらなくなってしまうのである。

 

 

……で、それって何が問題なの?

と、ガノタではない貴方はさらに首を傾げるかもしれない。

 

TV版Ζガンダムの最終話、主人公であるカミーユ・ビダンは死力を尽くして戦ったその代償に、ある種の精神崩壊をきたす。

 

Ζガンダムを含めた、主人公たちが駆るモビルスーツや乗船している戦艦アーガマもボロボロの状態となってしまっている。まさに満身創痍の状態である。

 

そんな彼らが補給と修理を兼ねてスペース・コロニー『シャングリラ』へと寄港することになり、ここで『ZZ』へとストーリーは繋がっていく。

 

つまり『シャングリラ』において、ZZガンダムの主人公であるジュドー・アーシタと出会うことが必須の条件なのである。

 

しかし、映画版のカミーユ・ビダンは、最後の戦いにおいて精神破綻をおこさないのである。

 

さらに細かい部分を簡略に記すと、敵側のアクシズ(旧ジオン公国の残党。後にネオ・ジオンを名乗る)が本来ならば地球圏へと進攻を開始するはずが、映画版では一時的撤退してしまう。

 

繋がらないのである。

 

映画版のように、最後にガールフレンドであるファ・ユイリィとイチャコラしていたら、繋がらないのである。

 

 

ガンダムを知らない貴方にはまだ、納得してもらえないだろう。

 

 

「別にいいじゃない。繋がらなくたって」と……。

 

 

少し声高に、こう言わせてもらおう。

 

 

否(いな)! 断じて否(いな)!

(※このセリフは『ガンダムW』なのでシリーズ越境行為である、なんてことも普通の人は知らない)

 

 

『ZZガンダム』において、第一次ネオ・ジオン抗争が勃発しなければ、さらにその後の系譜である『逆襲のシャア』へとリンクしなくなるわけで、そうすると、さらに(現時点でもっとも密接にリンクしている最新シリーズである)『ガンダムUC(ユニコーン)』へもコミットしなくなってしまうのである。

 

お分かりいただけただろうか。

 

つまり『系譜』としての楽しみ方ができなくなってしまうことが、(ガノタにとっての)一番の問題なのである。

 

 

◆矛盾を含む総監督の発言。

 

では、なぜに『新訳』と銘打っての新しいΖガンダムとして劇場公開されたのか?

 

総監督であるガンダムの生みの親、富野由悠季の言を以下に要約する。

  1. 総集編としての復刻版を作るつもりはない。
  2. 悲劇しかなかったTV版を、もっと健やかな物語として再構成する。
  3. 完全新作(TV版の映像を含まない)作品にするとΖガンダムではなくなる。

 

 

ということで、新訳である『A New Translation』の三部作が公開されたわけである。

 

TV版の映像に新作カットを追加して、再編集されたモノというのが、大雑把な劇場版の概要ではあるのだが、富野監督の発言と完成した作品との間に違和感があるからこそ、観た人の意見が賛否に別れているのだと思われる。

 

どういうことかというと、復刻版でもないし物語そのものの結末すら変えてしまうのならば、

むしろ『完全新作』として作るべきではなかったのか? ということである。

 

TV版Zガンダムとはまるで違うのに「Zガンダムではなくなる」という理由で旧作のカットを使用するのは、明らかに矛盾している。

 

むしろ純粋に「予算の都合で全編新作では作れなかった」というのであれば、ガノタの溜飲を(多少は)下げることができたかもしれない。

 

だが、これだけガンダム・シリーズというものが一大マーケットとして確立している現在において、そのメルクマールとして重要なポイントに位置する『Ζガンダム』に予算が割けないなんてことはないはずだ。

 

それも「Ζガンダム20周年を記念」しての作品なのだから、むしろ予算がないなら作るべきではないはずである。

 

結果として、この新旧がミックスされた表現手法、つまり新作カットに経年劣化をデジタル的にフィルタリングした技術(=エイジング)というものは意図的に描かれたものであるということになる。

 

その意図とはなんであるかは、最後に語ることにしよう。

 

この、映像に関する論議は、どこまで行っても平行線上の話となるので、これ以上の言及はしないことにする。

 

矛盾をはらむ富野監督に翻弄されるガノタという図式は、なにも今にはじまったことではない。

 

そこに目くじらをいちいち立てていると、ガンダムそのものを観る楽しみがなくなってしまうとも言える。

 

むしろ、富野監督の凄さが如実に現れているのは、その編集能力である。

 

TV版全50話からなる大作を、およそ90分作品3作にまとめるというのは、かなり大変な作業だったと推察できる。

 

初代ガンダムのように、ぶっちゃけ「あっても無くてもいいようなエピソード」というものが極端に少ないΖガンダムの物語を可能な限り短くまとめるというのは、完成されたジグソーパズルを、ピースを減らして同じような絵柄に組み替えろ、と言われるくらい難儀な仕事だと思われる。

 

もちろん、そのせいでTV版での名シーンなどが多々カットされてしまうというのは残念でもあるが、仕方のないことだったのかもしれない。

 

クワトロ・バジーナが、ダカールにある連邦議会を乗っ取って、自ら「シャア」だと名乗るこの瞬間こそ、Ζガンダムの醍醐味のひとつであったはずなのだが、残念ながらカットである。

 

 

キリマンジェロでのフォウ・ムラサメとの再会。そして別れ。

ガンダム・シリーズの悲劇の系譜として成り立つヒロインの死に方。これもカットである。

 

 

ロザミア・バダムが登場するサイコガンダムMK-2。

 

 

コイツは存在自体なくなってしまった。

 

◆この問題は語りだすと切りがない。

結局のところ、どう作ってみせようが上映時間をこれ以上増やすこともできないわけで、すべてを詰め込むことはどだい無理な話である。

 

この激しく賛否に別れた理由の決定的要因(であるとアニシエが感じている)監督の矛盾についても書き記した。

 

考えてみれば小説版『機動戦士ガンダム』(富野由悠季:著)なんかでは、そもそも主人公であるアムロ・レイが戦死するなんていう結末もある。しかも、最後に戦い破れるというよりかは、

なんとなく脇役の流れ弾でやられてしまうのである。

これなんかも(アニメ放映の方が先なので)原作とは大きく違うが、なぜか現代ではそれなりの棲み分けがきちんとなされている。

 

アレはアレ、コレはコレ。
という感じに。

 

なので、おそらくこの『 A New Translation』という3部作においても、最終的には「アレはアレだから」というところで落ち着くのではないだろうか。

 

少なくともアニシエ的にはガンダムというものはシリーズの系譜として楽しみたいので、劇場版Ζガンダムについては完全に「Ifの世界である」として楽しもうと決めています。

 

◆新訳と総集編の狭間で、刻の涙をみる。

 

意図的なエイジングとはなんであったのか。語ると言って忘れていたので語っておこう。

 

当初の目論見としては違和感のない新旧画像のミックスを理想形として考えられていたに違いない。

 

だが(これはある意味で当然の帰結でもあるが)デジタル最先端の技術で、旧作画と同じものをこしらえること自体が本末転倒となるわけで、作るならやはり『カッコイイ』ものにしたい、という欲が出てくる。

 

観る側としてもやはり「よりカッコよくなったΖガンダムが観たい」という期待値で観る。

 

少し脱線するが、初期型プレイステーションで発売された名作ゲーム『ファイナルファンタジー7』をPS4でリメイクする企画があるが、これなんかもトレイラームービーを観た途端、往年のファンには垂涎のカッコ良さなわけである。

 

全編新作を期待するファンと、旧作にこだわる(だが復刻版にしないという矛盾を抱える)監督との間には、埋めようのない溝のようなものが存在するのかも知れない。

 

そしてその矛盾に頭を悩ますのは監督よりも作画を担当するスタッフ陣であろう。

 

わざわざ旧作レベルに画質を落とすこともしたくないし、そうする必要性があまりない。

 

ガンダムを観て育ってきた若手クリエイターであれば、やはり『自分が観ていたものより、さらに』より良くしたいという気持ちもあったはずだ。

 

だから、新作カットとして作る部分は全力でカッコよく仕上げていく。
なので、どれだけエイジングを行ったとしても、出来上がった作品のチグハグ感は拭えない。
※余談であるが、あまりにクオリティに差がある新作カットに富野監督は激怒したらしい。

 

それでも、

 

監督のわがままを聞き入れつつも、劇場に来る観客にはスゴイものを観てもらいたい。

 

その思いが、このチグハグを生み出したのではないだろうか。

 

◆ようは、それがカッコイイならいいんじゃない?

 

たとえば、マンガやライトノベルが原作のアニメは星の数ほどある。
それらにしたって、物語のショートカットや意訳、あるいは大胆な改編は(長編であればあるほど)大いにある。

 

ようするに、できあがったアニメが面白かったり、カッコよかったりすればいいのである。
『エヴァンゲリオン』も『エウレカセブン』も、劇場版はまったく違う物語になっている。

 

ちなみに上記2作、アニシエは劇場版もTV版もどちらも好きである。

 

理由はひとえに「カッコいい」からだ。

 

TV版Ζガンダムを何度も観て、設定資料も貪るように読んでしまっているアニシエとしては、本作での物語の「分かりづらさ」を的確にお伝えすることができない。

 

というか、劇場版を観る理由がそもそも新作の戦闘シーンを観たい! という欲求が大半を占めているのだから、連邦・ティターンズ・エゥーゴ・アクシズの勢力争いについての予備知識は最初から備わってしまっている。

(※TV版を初見、あるいは2~3回観た程度のうろ覚えで劇場版を観た人が「複雑な話なのに説明がないからわからなかった」というようなレビューを読んだことがあるが、そもそも見方としては、あまりオススメできない視聴スタイルであると言う他ない。)

 

多少話が端折られていようが、細かく変わっていようが、大した問題ではないのである。

 

そして、新作カットの戦闘シーンは、そのどれもが素晴らしくカッコよかった。

 

アニシエがアラブの石油王であったなら、予算は好きなだけやる! と言い放ち、間違いなく全編新作で作り直させるところだ。

 

アニメに求めるものは人それぞれだと思う。だが、少なくともアニシエが観た『劇場版Ζガンダム』は素敵なカッコ良さもあれば、旧作の懐かしさも感じられる、それなりにお得な作品ということになるだろう。

 

◆ファースト・ガンダムからの変遷。

 

正統的(つまりガンダム正史として公式)な続編であることから、類似する点はかなり多い。

 

父と子、母と子の確執。敵の女パイロットとの悲恋。幼馴染、大人との対立。

 

そしてひとりの少年が戦士となって、大人へとなっていく過程。

 

初代ガンダムの主人公、アムロ・レイと本作の主人公カミーユ・ビダンが重なるように描かれている。

 

ファーストとの最大の違いは、若者も政治の世界へと参入していくことであろう。

 

ただのパイロットがライバルと戦うことで終わりを告げたファーストよりも、より世界に対する認識を深めようとしていく若者たちが描かれている。

 

「重力に魂を引かれている人々」からの脱却を目指すことが主軸にあり、敵対する三つ巴の勢力(シロッコ、ハマーン、シャア)は、そのどれもが同じ認識の上で戦いを繰り広げている。

 

その戦いに身を投じるカミーユたち若者にしてみれば、ずいぶんと身勝手な覇権争いにすぎない。

 

だからこそ翻弄されることを是とせずに、(それぞれのキャラクターがそれぞれの立場でもって)自分の信念を貫こうともがいているのである。

 

戦いだけではなく、時代をも担う。それがニュータイプとして本来あるべき姿であってほしい。

 

シャアが願っているのは、おそらくそういった革新なのだろう。

 

さらなる物語のレビューに関してはTV版Ζガンダムにて語ることにする。

 

おそらく、いきなりこの作品を視聴してもガンダムを理解することは不可能だろう。

 

どうしても劇場版Ζガンダムを「世界観を理解した上で最短コースで観たい」という人がいたら、次の順番がオススメである。

 

1.劇場版ガンダム1~3
2.OVA機動戦士ガンダム0083STARDUST MEMORY全13話
3.TV版Ζガンダム全50話

 

ここまでを踏まえてから『劇場版Zガンダム』を観ると、世界観を理解して楽しめると思います。

 

 

……え? 長い?

 

 


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